「未消化な感情はからだに残る」
これは日々の臨床をするなかでの実感です。
そして感情は気の流れを滞らせる大きな原因だと思っています。
そんなことを強く感じた治療について、体験談を書いていただきました。
ご自身の体験をシェアしてくださったHさんに感謝です。
願わくば元気になること≒幸せになることでありますように!
(達人みたいに書いてある部分は大幅に割り引いてお読みください(笑))
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去年(2017年)の6月にはじめて「大町はりきゅう」にかかった。「緊張しやすい体をどうにかしたい」という思いからだった。
20代の終わりにいろいろあって調子を崩した。「緊張しやすい」というのは、それ以来のこと。もともと得意な方ではなかったが、特に対人関係が苦手になった。人間のことは好きなのだ。ただ、人との関わりにおいてくつろいで安心した気持ちになることができない。
春先から人と会う仕事が続いて、あちこちかなり余波が及んでいた。身体中が緊張したままなのか、がちがちで疲れがひどい。休もうとしても、眠ろうとしてもリラックスできない。知らないうちに食いしばっているのか顎はだるく、頭皮は触るだけでいたい。これまた知らないうちに息を止めているためか、背中がバリバリ。どうにかしないとな、と思っていたところへ、信頼している友人から「大町はりきゅう」を勧められ、どきどきしながら予約をした。
第1回(6/4)
はじめての施術で自分の身体におとずれた感覚に、私は本当に驚いた。
施術中は、半分寝ている感じ。まるで夢を見ているように、閉じた目に映像が浮かんだ。しかし本当に寝ているときに見る夢とは多少違った。人間関係やストーリーがなくてイメージ中心だったのと、鮮やかで美しかったというのがおもな違い。特に覚えているのは、自分があたたかい海の底でサンゴになって産卵しているというイメージで、これはとても気持ちの良いものだった。もうひとつよく覚えているのは、次々と植物(ポピーのような花)が生長しては、はたはたと倒れていくというもの。シンクロして、頭の中のざわざわした言葉や雑念が生まれて育ちそしてパタパタと消えていった。こちらからは何も言っていないのに、鍼師さんから「いつもはたくさん頭の中にある言葉が少なくなっているのではないですか」と言われて驚いた。その驚きを表す言葉すら、穏やかに消えていった。
施術後――。かつて私の身体がこんなに軽かったことがあるだろうか。駐めていた自転車にまたがり、驚く。息がこんなに深く軽やかにできたことがあっただろうか。しかも、なんというのだろう、呼吸ひとつにも、自転車のペダルをこぐ足にも、じつに生き物らしい弾むようなしなやかさがあるのだった。
「別人の身体に入ったみたいだ」「こんな身体になれるのだったら、生きるのも悪くないではないか!」。大げさに響くだろうが、私は、私の身体のままでこんなに楽になれるとは考えたことがなかったのだ。空気を身体の隅々にまで吸い込みながら、広い若宮大路を自転車を軽快にこぎ進む。街を歩く人々の姿が目に入ってくる。身体が軽いと他者にたいして優しい気持ちになりさえするのだなと感心したのを覚えている。
紹介してくれた友人に興奮しながら送ったメールには、こうある。
「はりきゅう、すごーーーーく楽になった!びっくりした。こんな体感、何年ぶりだろうというぐらい久しぶりに楽。呼吸が深くできる!!自分の身体のなかにいるのがこんなに楽だったことは近年ない!と、本当に驚きました。
施術した方は、終わった後、ぐったりとした様子で『久々にやりがいのある方でした。大変な状態でした。こんな身体の状態でよく毎日の生活をしていらっしゃいましたね、大変だったでしょう』と言われました。がんばりを認めてくれるひと言に弱い私。目に涙がこみ上げました。とともに、プロの人にそう言われると、そんなにひどい状態だったのか、と思い知らされるようで軽くショックでした」
「ほんと良かったね~。そうなんだよ、良いんだよハリーさん、ほんとに」と、彼女も嬉しそうにしてくれた――鍼師さんのことを友人は「ハリーさん」と呼んでいた。
その日も夜になる頃には、この軽やかな感覚は消え、元の状態に戻っていったが、訪れた軽さを私はしっかりと記憶した。そして私は希望を持てるようになった。この身体を持ったままでは、つまり、生まれ変わらなければ、楽になることはないだろう、とさえ思っていたところにふいに訪れた感覚だったから。
「大町はりきゅう」のホームページに「髪を切りにいくような気軽さで」と書かれていたのを見て、「よし、毎月行こう。メンテナンスをしていけば、私のままで楽に生きられる毎日が来るかもしれない。少なくとも施術の一日か半日は味わうことができる」と心に決めた。
第2回(7/7)
「楽だったという感覚の記憶が、支えというか励ましになるように感じながら日々過ごせています」。2回目の予約をするときのメールにこう書き添えた。とても不思議なことが起きたということ、そしてそのことは私にとってとても大きなことで、すごく感謝しているということ、それを伝えたかった。ハリーさんは自分がものすごいことをしてるって知ってるのかな。恩着せるようなところが何もないので、かえっていぶかしむような気持ちでいた。
また今日もあの軽い身体を味わうことができる、と期待で急くようにして大町に向かった。
しかし、予想外にこの日、私は涙の嵐に揉まれることになった。なぜなのかまったく分からなかった。施術中、いきなり涙が出はじめ、あれ、おかしいなと思ううちに、おさめようとしても全くできず、ついには泣きじゃくり、嗚咽を挙げていた。ティッシュをもらい鼻をかむ。大量の鼻水。大量の疑問符。いったい、なんなんだ。
止めようのないこの涙は波を思い起こさせた。大きな波が寄せて、飲まれる。小さな波ですむこともある。もう泣きやめられるかと思えばまた大波。まったく私にはコントロール権がなかった。なんだこれ。
私のなかにはなんだか分からないが大きな悲しみのかたまりがあった。リラックスするとその悲しさが出てきてしまうんだ。悲しみと向き合わされることになるからリラックスしないように緊張しているのだな、自分は。「ああ、そうなのだ」とスッと理解した。これも半覚醒状態がもたらすものなのか異様なクリアさのある理解だった。
悲しみにはエネルギーがあった。「せっかく緊張することで止めていたのに。死ぬまで開けない方が良かった『ふた』なんじゃないの。日常に戻っていけるのかな」頭のなかに自然とそう浮かんでいた。子供のころ以来なんじゃないのかというぐらい、長らく忘れていた身体の感覚だった。もう、訳が分からないまま疑問符だらけの意識を一方に、私の身体は悲しみに乗っ取られていて、とにかく悲しくて悲しくて、しゃくり上げながら泣いた。その指で泣かせることができるのなら、その同じ指でいっそ死なせて欲しい。そんな考えさえ頭をよぎった。
ふと気づいた。泣きじゃくるのを抑えるときの呼吸が、分娩の時の呼吸に似ている。あれ、産んでいるみたいだな、と思った。「それなら産める」と思ったが、「産んでからが大変なんだよな…」とすぐに挫けそうになった。『どろろ』(手塚治虫・作)を思い出した。最初、どろろは頭も手足もないままにうごめく「かたまり」だった。とてもあわれを誘う生き物だった。あれは悲しみのかたまりなんじゃないかと、思った。ああいうのが身内にうごめいている。見られないように取りつくろってきたけれど、大きくなりすぎて、もう抑えきれない。醜いと思っているからだろうか。妖怪だと思っているからだろうか。だからすごいエネルギーなのかもしれない。もう認めてあげて、むしろ可愛がるしかない。寝転んだまましゃくり上げ、鼻水と涙でずびずびになりながら、私は身体のなかで主張を強くする「なにか」と押し合うように交渉していた。ハリーさんが魔法を解こうとしている。産婆なのか、この人は。否応なく、なにかが始まる。
「さあ、起き上がれますか…」という柔らかいが、しっかりとした声が聞こえる。そうだ、家に帰って、支度して、保育園にお迎えに行かなくちゃ…。のそのそと起き上がる。「どうなってんだろう…」と思わずつぶやいた。「まったく『どうなってんだ』って感じですよね」軽く笑んでハリーさんは言った。その姿は、なんというか、師匠のようだった。私は難問を出された弟子のように自分を感じた。どこか安堵の感覚が生じた。驚いていないんだ、この人。よくあることなのかな、鍼治療で泣くって。その笑みを含んだ彼の雰囲気が現実との橋渡しとなった。
「泣いても生活が困らないんだったら、出し切っちゃった方がいいと思いますよ」、こちらをうかがうようにハリーさんが言う。他にも何か言ってくれていたかもしれないが、私の頭は意味を受け取れなかった。
のろのろと帰り支度をするが、波はまだ引き切らない。身体は重く、濡れたバスタオルを100枚くらいいっぺんに引きずっているみたいだ。私は人間ではない。もう人間のフリができない。立派な妖怪だ。身体中から悲しみをあふれさせ、ずるずると引きずりながら右往左往する妖怪なのだ。
涙に濡れながら、さまようように帰宅し、なんとか保育園から息子を連れ帰り、ご飯、お風呂、寝かしつけまで終えた。子供に優しくする余裕もなく、ずっしりと重い身体で、3歳児と競うように(もしかしたら私の方が先に)眠りに落ちた。
「こんなになっちゃってどうするんだろう」とあれほど不安だったのに、翌朝、意外とすっきりと目が覚めた。深い眠りだったという確かな感触があった。あれ、楽になってる。「たまっていたものが出てるんですよ」と言っていたような気がするが、本当にそうだったのかもしれないな。そう思いながら、続く何日かを過ごしていた。ハリーさんからは「あれからどうですか。落ち着かないようだったら調整します」と気遣うメールが来た。「いつもより元気なくらいです。不思議なことばかりです」と「師匠」にたいして半ば誇るような気持ちで返したその日の夕方、涙の波がやってきた。そこから2週間ほど、突発的に涙の波におそわれる日々が続いた。一度などは人生で初めてのパニック発作らしきものに見舞われた。過呼吸になり、胸がどきどきし、また涙の波が打ち寄せた。
私の心身はとても感じやすく、傷つきやすくなっていた。人間関係だけでなく、音や光にまで及ぶあらゆる情報に過敏になっていて、外出はもちろんテレビ、ラジオなども辛い時があった。波のこないときは凪いで灰色の無気力の海にうち沈んだ。過去に体験したさまざまな悲しい記憶が予告なく襲来しては、私を振り回した。バラバラに千切れて飛ばされそうだった。
やっぱり緊張した身体は文字通り私を守る鎧だったのだ。鎧がなくなって、むき身になっている。これからどうすればいいんだ。開けないようにしていたものを開けられた、という抵抗感のようなものがあった。不健康かもしれないけど、私はああやって生き延びてきたのだ…と駄々をこねるような不機嫌さがあった。しかし同時に、子供のように手放しで、思い切り泣いたら気持ちいいだろうな、という予感もあった。これで何かが進むのかもしれない。半ばやけっぱちに期待した。
第3回(9/8)
「1ヶ月に1回、髪を切るように」と決めたときはよもやこんなことになろうとは思っていなかった。またあの大嵐に見舞われたら…と怖かった。あの後、徐々に涙の波におそわれる回数は減ってはいた。しかし、また行った方がいいと思いつつも3回目の施術になかなか踏み出せなかった。そうこうしてるうちに夏が終わった。
迎えた9月には、秋晴れの空を映したような爽快な心身となっていた。なにか変わりはじめているような気がした。心を奮い立たせ3回目の予約をした。
「怖さがありながら、ありがとうございます」あれからどうなったか気になっていたと気遣われる。「ちょっと警戒していますか」との問いに、たしかに安心して任せきってない自分に気づく。しかし、かまえていたところもあったはずなのに、あっという間だった。魔法だ、魔法がはじまったぞ、と思う。
胸のみぞおちあたりに指を乗せているだけ――なんともいえない絶妙な力加減だなぁとは思うが、言ってみれば「それだけ」で、私の身体は目、耳、お腹。あちこちが熱くなる。喉にかたまりがせり上がってふさいでくるような感覚。肩には力が入る。鼻水がじゃんじゃん製造されている。いつの間にか息を止めていた。口から大きく息をつく。力を抜くために。呼吸が浅くなっているのだ。時折、喉から勝手に声が出る。嗚咽のしっぽだ。
どこから打ち寄せるのか分からないが、体感としてはやはり波だった。堪えてやり過ごすと、熱のようなエネルギーが身体を移動するのが分かる。潜って波をやり過ごすような感じだ。熱はお腹あたりを上がってきて頭のてっぺんからスッと抜けて去って行く。
やり過ごしながら頭に去来したのはこんな思いだった。「人間にこの悲しみのかたまりのエネルギーを預けるわけにはいかないのに。神さまか、修業を積んだ宗教家ぐらいにしかどうにかできない。だからここで解き放つわけにはいかないんだよ、ハリーさん!」「おい、よせ!危ないぞ!近づくな!」頭の中だけだが、大音量で警告が発されていた。
自分がこんなことを思いつくなんて、知らなかった。次々と固めていた思いが明らかになる。「頼ってはいけない」「よりかかってはいけない」「安心してはいけない」――「向こうがおののいて、はしごは外されることになるんだぞ!」静かに横たえたままの身のうちで「私」が「私」に必死に訴えかけてくる。
「私の『たすけて』は人に向けることはできない」――そうか、私はこんなことを考えていたのか。他者に頼ってはだめ。かといって自分だけでは無理そう。神さまには聞こえるか分からない。でも、神さまとか仏さましかいないんだ。「私は人間界に向かない」「とにかく、この世と合わない」。はっきりとそういう言葉が浮かんだ。また泣いていた。たくさん。
悲しみの渦に巻き込まれながら、しかし安全なところにいるからだろうか。どこか冷静な頭で私は思った。これは生理的な涙だと。ちょうど夢のなかでこれは夢だと分かっているときのようだった。身体がゆるむと理由はなくても涙が出る。いってみればラーメンを食べると鼻水が出るように当たり前のことが生体反応として起きているのではないか。しかし、脳の方では「泣いている」身体につられて、あくまで後から「悲しい理由」を引っ張り出してくる。つまり意識の勘違いなのではないか。それにしても、この涙が出る分だけのエネルギーを、かつて身体をこわばらせることで抑え込んだことがあるとすると、それはそれで相当量だな、と人ごとのように思った。
「出てくる涙を我慢するのは自然じゃないと思いますよ」とハリーさんは言った。施術には終わりの時間が来る。今日は涙を予期していたこともあり、現実に戻るのはそれほど大変ではなかった。あらためて、やっている方こそ、こんな患者がきて大変だろうと恐縮する気持ちが出てきた。それこそ「彼は神さまではないのに」だ。帰りぎわに、つとめて明るく「ふつう」の人間のように、しかしおそるおそる「また来てもいいですか?」と訊く。もちろんどうぞ、とためらうことなく請け負う彼にほっとする。だが、今日の魔法使いはどこか思案気だ。なにか言いたいことがありそうだった。
「いつまでこの涙つづくんでしょう。これだけ大変な目に遭っている人はそういないのではないですかね。何を体験なさったんでしょう」私が靴を履いていると、ハリーさんがわざわざ玄関が見えるところまで来て言った。「いや、そんな大変な目に遭ったというのでもないと思うんですがね。自分で勝手に大変がってるだけなのかな、と思うんです。だって戦争に行ったわけでもないですからね」私は笑いながらそう答えた。本当にそう思っている。たしかにそれなりに大変なことはあるが、ふつうの人にふつうに起こる程度のことしか起きていない。だから私は大丈夫なはず。私は「ふつう」なはず。功罪のある言葉だと分かっていた。私は「ふつう」という言葉に頼っているのかもしれない。チラッと思った。
だがそれよりも、と私は気になっていたことを言った。「施術している方には、でもご負担おかけしていると思います。お疲れになりましたよね」。すると本当に意外そうな表情を一瞬してから「楽しんでやっているんで大丈夫ですよ」と笑顔で送り出してくれた。やっぱり師匠は頼りになるなぁ。「神さまじゃない人」に負担をかけたという罪悪感が「楽しい」という言葉でぬぐわれ、気持ちが軽くなった。何が進んでいっているか分からないが、悪いことではないはずだ。迷惑にも思われてない。泣いて疲れたが、やっぱり来てよかった。
* *
その翌日。おおきな涙の波が来た。
2年ほど前から、縁あって北鎌倉の建長寺で週に一度坐禅会に参加している。その最中のことだった。
半跏趺坐を組んで本堂に座りながら、私は涙の波におそわれていた。「ふた」が飛んで噴き出すかのようだった。
私がまだ大学生だった22歳の頃、先に卒業していった先輩が亡くなった。自殺だった。彼女がいなくなって悲しい。大好きだったのに。死んで欲しくなかった。愛しい、悲しい、愛しい、悲しい。感情がこちらのことなんかお構いなしという感じで、強烈な暴風雨となってあちらからこちらから私にぶつかってきた。
彼女の死は、たしかにいまだに受け止め切れたとはいえない出来事だ。しかし私にはこの荒々しいエネルギーを持つ涙に、はっきりと思い当たる理由があった。彼女が亡くなったその後に、私は、自分で自分に「泣いてはいけない。自分が泣いてカタルシスを得てはいけない。彼女の死から私が気持ちよさを得てはいけない」そう、厳しく厳しく禁令を出して過ごしていたのだ。
彼女のこと、彼女が亡くなったことは忘れたことがない。だが、自分がこんなに厳しい禁令を自分に出していたことは忘れていた。なぜ忘れていられたのだろう。愚かだ。つい前日、大町はりきゅうの玄関で、去り際にかわしたやりとりを思い出しながら思った。ここに、こんなに泣かないように抑えつけられた涙があったではないか。
彼女が死んで、あそこで私はひとりになった。そして重大なことをひとりで負い始めた。他の誰も私の代わりに負うことができないものだ。「私があの時ああだったら、こうだったら彼女は死ななかったかもしれない」。私は自分の罪のことも忘れていたのだろうか。私をひとりにしたもの、それは彼女の死だった。他の誰とも共有できなかった。共通の友人、知り合いがもちろんいた。彼ら彼女らと互いを慰めることも、気持ちを分かち合おうと試みることもあった。様々な人やものが様々な仕方で様々なものを差し出してくれた。じっさいに慰めにも励ましにも助けにもなったと思う。感謝しなければならない。
しかし、圧倒的な「ひとり」だった。私と、彼女の間にしかない何か、私たちの間にだけ在った何かが永久に失われた。それはどこまでも個別的なものだ。彼女を知る誰もがみな、それぞれに彼女との間に固有の何かを持っていた。私は、ひとりひとりがこれほどまでに違う人間だなんて、それまではっきりと知らなかったのだ。人がこれほどまでにひとりだということも、おそらくはじめて思い知ったのだ。恵まれていたのだろう。
私は神さまと闘った。「なぜ彼女を死なせたのか」「彼女が死ぬような世界をなぜ作ったのか」、そう告発した。以来、私は神さまに不信感を持っていた。そしてそのことに気まずさを覚えていた。帰る家はなくなったように思っていた。
「なぜ」へのその応えを、神から得たようにも思っていなかったが、世界のそこここで、じつに微細な神らしいやり方で応えが示されていたのかもしれない。
夫と出会い、次第に人のかたわらで安心することを覚え、彼女を喪った悲しみを話せる間柄にさえなった。しかし程なくして心身の調子を崩した。なんとか暗いトンネルを抜けはしたものの、人との間の距離に悩み、頼りたいが寄りかかってはいけないというジレンマにさいなまれて過ごした。その私が、今、なんと、子供をなし、育ててさえいる。なんと有り難いことなのだろう。
そのなかで、私はこの抑えられた涙のことを忘れていた。弔う。浄める。言い方はどうあれ、何かつとめを果たさなければならないだろう。因果のなかで起きた彼女の死に対し、私の因果を果たさなければ。ふとそう思えた。
まず、悲しみきらなければならない。それから見えてくるものがあるかもしれない。「やるべきこと」は分からないが、そんな気がした。のばしのばしになっていたが、私は彼女の17回忌のお詣りをすることを決めた。「行ってくるから」と夫に宣言した。彼女の両親に電話をした。宿を予約し、新幹線や飛行機のことを調べた。
始まった何かは、ひとつはここに繋がっていくようだ。悲しみのすべてではないのは分かっている。私にはたくさん陽の当たらない箇所があって、そこに見たくないもの、忘れていたいことを隠しているのだ。まだまだ大物もちらほらいる。特に親との関係は黒々と大きな影を落としている。しかし、まずはひとつ、流れ出したのだ。
願わくは、この道を、あなたが見守り、行く末を照らしてくださいますように。私は勝手に神と和解し、いくらか図々しいかなとも思いつつ、恩師に久々の電話をかけるように祈った。
第4回(10/16)
「そろそろ1ヶ月経つな」。4回目こそ美容院に行くときの感覚で予約した。
はじめに「今日はどんな感じですか」と聞かれたので、少し考えて、「何日か前から気持ちが暗いですが、まあ天気もあると思います」と答える。ずっと10月らしからぬ寒さで氷雨が続いていたのだ。「みんなそうですよ」と笑いながらハリーさんが答える。あとは最近、左側の腰が危なっかしいとか、秋が来て右足首に氷の輪がはまっているかと思うほどの冷えがあるとか、ばらばらと伝える。
施術中、言葉が消えていく深いリラックスのなか、それでもあまりの驚きに「ものすごく息が楽にできます」とだけ伝える。リラックスした身体とシンクロして、自分が波に浮かぶ羽衣になり、穏やかな波にやわらかく打ち寄せられたりまた引いたりしているイメージが訪れていた。横たわる私に、ハリーさんが「今日は割とふつうの鍼灸治療に近いです」と言う。
その「ふつうの鍼灸治療」では、右足の足首の冷えに対処してくれていた。両足首をつかんで「違いが分かりますか」と聞かれる。右だけ病気の猫のように細いのが分かった。3年以上、秋冬の度に右足にこの冷えを感じてきたが、太さが左右で違うなんて思ってもみなかった。膝上あたりの腿も比較。本当だ、右足の方が細い。「筋肉にも弾力がなくなってますね」と教えてくれる。「流れが詰まっているんですね。鍼灸的にいうと『めぐり』が悪くなっている状態です」と解説される。股関節も詰まっているそうだ。「三陰交」という足首の少し上にあるツボにお灸をした。「こうやって末端から流していくんです」と言われた。
「ふうん」と思った。山のなかの渓流みたいだな。石を取り除くとバッと水の流れがそこにくる。新しい流れに落ち着くまでは泥が舞い上がったり、石の下にいた生き物が居場所を奪われて右往左往したりする。そのまま流れる水に洗われたり陽に当たったりしていると、そのうちドロドロしたものや暗いところの生き物はどこかへ流され、消えていく。
「おうちでも一日1,2回お灸するといいですよ」と手術を終えたお医者さんのようにハリーさんは言った。そうか。陽に当てたり、流水で洗ったり、そういうことを日々した方がいいんだな。部屋の掃除とか、布団を干すとか、そういうことと同じなのかもな。そういえば坐禅も、やっていることは似ている。ごまかしのきかないようにじっとしてると、石や岩をどけて「念」がひょいひょい出てくる。こっちに「んばぁ~~」とやりにくる。それを「ああ、そうですか」とひるまずに、何でもない感じで確認して流していく。坐禅でやっているのは(私の場合)そういうことだった。「自分の姿に親しむこと」と表現しているお坊さんもいた。妙に納得した気分で――とはいえやはりこともなげに起きる「魔法」に首をかしげるような気持ちもありつつ――延ばしても痛みの出なくなった右足の内ももに驚いて見せたりしながら、終わりの時間を迎えた。「今年の冬はいつもより少し温かい足で過ごせると思います」とのことだった。
結局、その日、涙の波は来なかった。そして終わった後の身体。ものすごく息が楽にできる。長い息ができる。身体の隅々まで息が届く。空気が美味しい。身体が軽い。楽に動かせる。思わず笑ってしまう。そのぐらい軽かった。
私は自分のことを「妖怪」だと思っていた。妖怪なのに人間界に偽造パスポートで紛れ込んでいるのだ、と。よく夫にも冗談半分で、外界で感じるストレスについてそうやって話していた。パスポートがニセモノだとバレたら、本当は妖怪なのだとバレたら、どうしよう。いつもそうやっておびえていた。人間のフリをしなくちゃ、と一所懸命だった。もしかすると、これが「ふつう」という言葉の呪いの中身かもしれない。
軽くなって、息ができるようになった身体で鎌倉駅に向かいながら、私は好きなものを思い出していた。私はエスニックフードが好きで、知らない街を歩くのが好きで、自転車で風を切って海沿いの道を走るのが好きで、野外でご飯を食べるのが好きで、歌うのが好きだった。誰かに贈り物をすることが、音楽が好きだった。伸びやかなチェロの音、悲しみを吸い込むピアノの音。どんどん好きなものを思い出す。好きなものがあることを思い出す。「人間」だったころの感覚だ。私はひょっとしたら、人間なんじゃないか? いま、人間に戻れているのじゃないか?
私はずっと妖怪の重い身体を引きずりながら、人間たちを横目に見て、いつもほんとうに不思議だった。なんでみんな平気な顔をして生きているのだろう。生きるのってこんなに大変なのに。毎日、下手したら毎分毎秒苦しい。夫も優しいし、子供も可愛いのに、どうして私はこんなに毎日大変なのだろう? 私がおかしいのだ、私が「ふつう」じゃないから。妖怪だから。「ふつう」はこういう状況でこんなに苦しくないはずなのに。でもなにがおかしいのだろう。わからない。心の底から笑ったのなんていつだろう。しばらく考えないと思い出せない。何ヶ月という単位で前のことだったりする。そもそも記憶の薄い日々で、渦中では時間の進みは恐ろしく遅いのに、過ぎてしまうとあまり覚えていることがなかった。ぼんやりと、これでいいのかな、と思うことはあった。
それが今――。生きるって、全然考え込むまでもなく、悪くないじゃん。だって、息を吸えば空気は美味しいし、身体は軽くてどこまでもいけそう。好きなこともあるし、会いたい人もいる。そしたら全然、明日が来るの、こわくない。ああ、だからみんな楽しそうに生きてるんだなぁ。私は、はっきりと公言するのははばかられるが「生きていたい」と思えないことの方が多かったのだ。死んでしまいたい、と思いながら生きているなんて、生きている人には(お医者さんやカウンセラーさん、牧師さんやお坊さんなどの「プロ」の人を除けば)なかなか言えないことだ。いのちの明るさに与れない私は、暗いところに棲まう妖怪だった。妖怪だということを隠して人間界で生きるのは本当に大変だった。苦しかった。でも、こうして、息ができるようになれば、身体が軽くなれば、こうやって「人間」に戻れる。ハリーさんは魔法使いだった。
治療を終えた後、ハリーさんは「こちらもぜんぶ分かっているわけじゃないんです。『今日は泣かせよう』と思ってやっているんじゃないんですよ」と笑いながら言った。「身体というのは、奥が深いですね」だそうだ。
石を取り除く。すると流れが変わる。昔話のような、寓話のような、そういうことが自分の身体に起きた。あるいは、気づいていないだけで毎瞬起きているのかもしれないと思わされる。これからも当然のように流れがよどむことはあるだろう。それは暮らしていれば部屋が汚れるというのと同じだ。だから掃除をする。きっと、ためこまない方がいいというところも同じだろう。
髪を切るのと同じように――。このチャプターは終わったが、私はまた魔法使いに会いに来る。